会津若松城の場所にはもともと南北朝時代に蘆名直盛という人物が築いた黒川城という城があり、その後秀吉の時代に伊達政宗がこの会津を攻め、秀吉の家臣である蒲生氏郷がこの地に入りました。
蒲生氏郷は黒川城を高層の天守閣のあるものに築城しなおし、会津若松の城下町も整備。この街の名を黒川から若松に変えたのも蒲生氏郷だそうです。
天守閣の周りにある堀・石垣もかなり立派で、過去の会津若松城の威風が偲ばれます。
会津若松城天守閣。2011年に改修され、とても優美な姿を見せています。
会津若松城は先述のとおり芦名氏の後は蒲生氏郷が整備し、その後上杉景勝、加藤嘉明が城主となりましたが、関ケ原の戦い以後はずっと徳川家ゆかりの保科家・松平家が歴代城主となりました。しかし幕末、松平容保が城主となった時に戊辰戦争が勃発し、会津若松城は新政府軍の総攻撃を受けました。
会津若松城の象徴とも言える、天守閣から伸びる走長屋。
天守閣から見た本丸庭園。紅葉の時期で木々が綺麗です。
本丸庭園にある茶室「麟閣」。戦国時代の茶人・千利休が秀吉に死を命じられた際、当時の会津若松城主である蒲生氏郷が利休の子・少庵(しょうあん)をここ会津にかくまい、その少庵が恩義を感じて建てたのがこの麟閣なんだそうです。
荒城の月碑
本丸庭園にある荒城の月碑。「荒城の月」は滝廉太郎の作曲で有名ですが、作詞は仙台出身の土井晩翠(ばんすい)という人で、学生時代にこの会津若松城を訪れた際にこの「荒城の月」を作詞したそうです。
こちらは上杉謙信公仮廟所跡。謙信の死後、謙信の養子で跡継ぎであった上杉景勝がここ会津若松城に入城した際、謙信の遺骨もこの地に運ばれ一時的に埋葬されたそうです。