JR高崎線の駅の1つであるJR深谷駅。深谷はネギで有名ですが一方で煉瓦の産地としても有名で、この駅も元々はここ深谷で生産されたレンガを東京に運搬するための専用線の駅だったそうです。
この深谷産の煉瓦は、現在の東京駅、赤坂離宮、東京大学、法務省旧館など、明治~大正期に東京で造られ今も残る名立たる歴史的建築物に使用され、現在の深谷駅はその一つである東京駅を模した煉瓦造りの駅舎になっています。
そして深谷駅前に立つ渋沢栄一像。渋沢栄一は明治~大正期の実業家で、第一国立銀行や東京証券取引所の設立など、今の日本経済の礎となっている多くの事業を手掛けた人物として有名ですが、ここ深谷出身だということはあまり知られていないのではないでしょうか。
深谷城跡
深谷駅から北へ900ⅿほど行ったところに、深谷城跡公園があります。
深谷城は戦国時代に深谷氏が築いた居城ですが、今は天守閣もなく模擬の石垣があるのみです。
深谷城跡公園から東へ400ⅿほど行ったところにある深谷商業高校。
この深谷商業高校は1921年に渋沢栄一らの尽力によって開校し、開校当時のレトロでお洒落な建物は、現在深谷商業高校記念館として再利用されています。
深谷城跡公園から北へ2.5kmほど行ったところに、かつてこの地にあった日本煉瓦製造株式会社の施設があります。
写真は「ホフマン輪窯6号窯」という煉瓦を製造していた施設です。
こちらのピンクのお洒落な建物は日本煉瓦製造株式会社の旧事務所で、今は煉瓦史料館となっています。
こちらの煉瓦造りの小さな建物は旧変電所だそうです。
旧日本煉瓦製造株式会社の施設群から西へ2kmほど行ったところに、「清風亭」と「誠之堂」という洒落た建物が並んで建っています。
白い洋風の建物が清風亭で、この建物は第一銀行頭取で渋沢栄一と親交のあった佐々木勇之助の70歳の古希記念して、大正時代に東京都世田谷区にあった第一銀行の保養施設だそうです。
清風亭の隣にある茶色で風見鶏の付いた洋風の一軒家の建物が誠之堂。こちらは渋沢栄一の喜寿を記念して同じく世田谷区に建設されたもので、平成11年に清風亭と共に世田谷区からこの地に移設されました。
清風亭・誠之堂から14号線沿いを北へ1kmほど行ったところに、尾高惇忠(おだかあつただ)という人の生家があります。
この人は渋沢栄一の深谷時代の師匠にあたる人で、当時渋沢栄一はこの人に学問を習っていたそうです。その後尾高惇忠は旧幕府軍として戊辰戦争に参戦、飯能から函館戦争まで戦い抜き、明治維新後は大蔵官僚となった渋沢栄一の指名を受け、1872年に開業した富岡製糸場の初代場長となりました。
尾高惇忠生家から北西へ700ⅿほど行った川沿いに、渋沢栄一記念館があります。
記念館の中には渋沢栄一に関する資料室があり、また記念館の川側の方には大きな渋沢栄一の銅像があります。
記念館の中にある渋沢栄一資料室。
渋沢栄一像
記念館の川側に立つ渋沢栄一像。かなり大きく、中国のかつての指導者・毛〇東にちょっと似ている気がします;
渋沢栄一生地(中の家)
渋沢栄一記念館から川沿いに西に700ⅿほど行ったところに、渋沢栄一の生家があります。
渋沢栄一生地(中の家)の北側の川沿いにある青淵公園。「青淵」(せいえん)というのは渋沢栄一の雅号で、公園内には青淵由来之跡の碑があります。
青淵由来之跡
青淵公園にある青淵由来之跡の碑。青淵という号は渋沢栄一の師匠・尾高惇忠が名付けたそうです。
深谷駅から南へ7㎞ほど行ったところに、畠山重忠公史跡公園があります。
畠山重忠というのは平安末期~鎌倉時代の坂東武者で、源頼朝の家臣として従軍し鎌倉幕府の成立に尽力するも、頼朝の死後、初代執権・北条時政の謀略によって討たれてしまったそうです。
公園内に立つ畠山重忠の銅像。畠山重忠は忠誠な武士であったため、坂東武士の鑑と言われたそうです。
公園内には畠山重忠の墓もあります。