下関駅から北東へ約25㎞ほど行ったところに「東行庵」があります。
この東行庵には長州藩士で幕末の志士である高杉晋作の墓があり、「東行」というのは高杉晋作の号だそうです。
この地はもともと同じく長州藩士・奇兵隊士で後に内閣総理大臣となる山縣有朋の別宅「無鄰菴」がありましたが、同時にこの辺りが高杉晋作が結成した奇兵隊の本拠地であったことから、後に伊藤博文・井上馨等の寄付により、その無鄰菴の跡地であるこの地に東行庵が建てられたそうです。ちなみにその山縣有朋の無鄰菴は京都に移ったそうです。
境内には高杉晋作の墓のほか、高杉晋作の銅像や様々な歌碑などがあります。
階段の手前にある高杉晋作の歌碑。刻まれている「おくれてもおくれても 又君たちに誓ひしことをあに忘れめや」という歌は、亡き同志を偲んで詠んだ歌だそうです。
またその高杉晋作の歌碑の横には司馬遼太郎の文学碑が。「長州は奇兵隊の国である。」と刻まれており、これは司馬遼太郎が「街道をゆく」でここ長州の地を訪れた際に書いた一文だそうです。
福田侠平というのは奇兵隊の一員で、高杉晋作に最も信頼された人物だったことからこの顕彰碑が建てられたそうです。ここには奇兵隊員の墓がありますが、この福田侠平の墓はそれらの墓と別のところにあることから見ても、その扱いの違いが分かります。
そして高杉晋作の墓。「東行墓」と書いてあります。お墓の敷地がこんなに広くて立派であるあたり、同じ長州藩の志士を含む地元の人々の高杉晋作への敬意慕情がとてもよく分かります。
その隣に、奇兵隊の中で最も高杉晋作が信頼したという福田侠平の墓もあります。
また木戸孝允・井上馨・伊藤博文が寄進したという灯篭もあります。
寄進の灯篭、高杉晋作の墓、福田侠平の墓が並んでいます。
多くの奇兵隊士の墓もあり、ここから上にのぼったところに観音菩薩の石像があります。
白石正一郎というのは下関にいた幕末の豪商で、高杉晋作や坂本龍馬などの幕末の志士に資金面で援助していた人物で、高杉晋作は、下関にある白石邸で奇兵隊を結成したそうです。
その幕末の志士にゆかりのある白石正一郎の墓もここにあります。
白石正一郎は「資風」という名で歌もよく読んでいたらしく、ここにもその歌碑があり、「白たへに にほへる梅の 花ゆえに あけゆく空も みどりなるらん」と書かれています。
前述のとおりこの地は山縣有朋ゆかりの地でもあるため、「日露戦争凱旋記念碑」もあります。この文字は山縣有朋自身が書いたものだそうです。
敷地の奥に、高杉晋作像が佇んでいます。長州藩出身の著名な人としては吉田松陰、木戸孝允、伊藤博文など多くいますが、個人的には地元ではこの高杉晋作が一番の英雄であり、人気があるのではないかと思います。
別の高杉晋作の詩碑もあります。こちらはちょっと長く、
「題焦心録(焦心録に題す)
内憂外患迫吾州(内憂外患吾が州に迫る)
正是邦家存亡秋(正に是れ邦家存亡の秋)
将立回天回運策(将に回天回運の策を立てんとす)
捨親捨子亦何悲(親を捨て子を捨つる亦何ぞ悲しまん)」
と書かれています。国を憂いた焦燥感・使命感が感じられます。
そして東行庵の建物そのものが。昭和41年に大改修をしたそうです。
東行庵の隣には、高杉晋作や奇兵隊に関する資料などを収蔵した東行記念館があります。
また東行庵の隣の敷地は、池のある庭園風になっています。
こちらの庭には谷玉仙尼(たに ぎょくせんに)という人の銅像があります。この人は東行庵の三代目庵主だそうです。
そしてこの庭にも高杉晋作の歌碑が。こちらは有名な「面白き こともなき世を 面白く 住みなすものは 心なりけり」が書かれています。なお高杉晋作が詠んだのは「面白き こともなき世を 面白く」までらしく、後半の「住みなすものは 心なりけり」は、高杉晋作の最期を看取った野村望東尼(のむらもとに)という歌人が付け加えたそうです。
山縣有朋の歌碑もありました。「となりなき 世をかくれ家の うれしきは 月と虫とに あひやとりして」と書かれています。この歌は山縣有朋がまだ奇兵隊員であった時にこの土地に建てた無隣庵で新婚生活を送っていた頃に詠んだものだそうです。
東行庵から北へ1㎞ほど行ったところに、奇兵隊陣屋跡と奇兵隊の像があります。奇兵隊は武士以外の一般の人間も隊員であったことが特徴で、高杉晋作指揮のもと、米・英・仏・蘭の4カ国連合艦隊を砲台で迎撃するなどしました。その奇兵隊の陣屋がここにあったそうです。
陣屋跡にある奇兵隊士の像。勇ましいです。