北新地の南側にある中洲・中之島。ここには大阪の文化施設が集まっており、大阪出身の安藤忠雄はこの中之島を、フランス・パリの中心部のノートルダム大聖堂やサント・シャペルなどが立つシテ島のようだと例えました。
中之島の中心部は大阪のメインストリート・御堂筋が南北に貫いており、その中之島の御堂筋沿いの東側にある立派な建物が、かつて橋下徹氏がぶっ壊そうとした大阪市役所です。
御堂筋を挟んで大阪市役所の向かい側にある日本銀行大阪支店。
この建物は東京・日本橋の日銀本店と同じく辰野金吾が設計したもので、日銀本店は1896年、そしてこの大坂支店は1903年に建てられました。ちなみにこの御堂筋沿いにある建物は旧館で、本館はこの旧館の後ろにあります。
日銀大阪支店の前には駅逓司(えきていし)大阪郵便役所跡の碑が。郵便制度は明治維新後の1871年に大阪-京都・東京間で初めて始まり、大阪ではここにその郵便役所がおかれたそうです。
大阪市役所の東側にはギリシャ神殿のような建物が。これは大阪府立中之島図書館で、1904年に建築家・野口孫市により建てられました。かなり立派な図書館で、近年改修されたこともあり館内もとても綺麗です。
大阪府立中之島図書館の東側にある大阪市中央公会堂。このジュークボックスのようなお洒落な建物は、近くにある日銀大阪本店と同様辰野金吾により設計され、1918年に完成しました。
辰野金吾の建築物は日銀本店・大阪支店のような無機質ながら荘厳で風格のある建物もあれば、東京駅やこの中央公会堂のようなレンガ造りのレトロでお洒落な建物もあり、同じ1人の建築家から生まれたとは思えないほど幅広いです。
大阪市中央公会堂の南側に、大阪通商会社・為替会社跡の碑がひっそりと立っています。
この大阪通商会社・為替会社は明治維新期に設立されるも廃藩置県の影響等でうまくいかなかったそうですが、後の多くの会社や銀行の設立に寄与し、大阪の近代化に大きく貢献したそうです。
中央公会堂南側の土佐堀川沿いに、合水堂顕彰碑というのが立っています。
「合水堂」の下に小さく「華岡流外科顕彰碑」と書かれています。合水堂というのは江戸時代の医師・華岡鹿城(はなおかろくじょう)が開設した医学塾で、当時のこの華岡流の外科技術というのはかなり先進的だったらしく、華岡六城の兄・青洲は、全身麻酔薬「通仙散」を開発し、世界で初めて全身麻酔による乳がんの手術に成功した人物だそうです。
ちなみにこの華岡鹿城の合水堂と大阪市の中央区にある緒方洪庵の適塾は、当時ライバル関係にあったそうです。
中央公会堂の東側に、関一(せきはじめ)という人の銅像があります。
この関一という人は1923年に第7代大阪市長に就任した人物で、当時御堂筋の拡幅や大阪都市協会設置、大阪市営バス・地下鉄事業の開始、大阪港の建設、日本初の市立大学大阪商科大学(現大阪市立大学)の開設など様々な施策を実行し、彼が市長時代の大阪は「大大阪」と呼ばれたそうです。
ちなみにこの人はもともと静岡の伊豆の出身だそうで、孫・関淳一が第17代大阪市長になっています。
関一像の東側には大阪市立東洋陶磁美術館があり、その美術館前に大阪銀行集会所・大阪銀行協会跡がひっそりとあります・・・が、解説がないので由縁がよく分かりません;
大阪市立東洋陶磁美術館の東側に、木村長門守重成表忠碑という大きな碑があります。
木村重成というのは豊臣家の重臣で、江戸幕府開府後豊臣家と徳川家が戦った大坂冬の陣・夏の陣でも豊臣方として参戦し、夏の陣で戦死したそうです。
中之島を更に東に行くと難波橋があり、難波橋の東側にはバラ園が広がっています。
中之島の堺筋に架かる難波橋。歴史あるかなり立派な橋で、橋の北詰め・南詰めにはライオンが鎮座しています。
難波橋の南詰めのライオン像。これは当時珍しかった天王寺動物園のライオンがモデルと言われているそうです。
西側から見た難波橋。橋の南側に立つ大阪証券取引所とかなりマッチしており、まるで浪速のウォール街です、というのは言い過ぎでしょうか;
中之島のバラ園を更に東側に進むと、今度は天神橋筋に辿り着き、そこに天神橋が架かっています。
この天神橋と先ほどの難波橋、そして更にこの東にある天満橋を総称して「浪華三大橋」と呼ばれるそうです。
また日銀大阪支店から西側に行くと、中の島セントラルタワーやフェスティバルタワーといった高層ビルがそびえ立ち、その西側にダイビル本館という歴史あるレトロな茶色の建物があります。
この建物は大正・昭和期の関西で多くの建築物を建てた渡辺節の設計で、入口のネオ・ロマネスク様式の装飾が見事な建物です。ただこの建物も、東京駅界隈等によく見られる、歴史的建造物の上に高層ビルが乗っかっているファザード建築になっています。
ダイビル本館から東に250ⅿほど行った土佐堀川沿いに、大阪大倉商業学校跡地碑と大阪師範学校跡碑があります。
大阪大倉商業学校は明治・大正期の大倉喜八郎という新潟出身の実業家が建てた学校で、今の関西大倉高校の前身にあたるそうです。
この大倉喜八郎は渋沢栄一らと共に東京に鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立した人物で、息子・大倉喜七郎はホテルニューオークラの創業者だそうです。
また隣には大阪府師範学校跡碑も。この大阪府師範学校は今の大阪教育大学の前身の官制の学校で、大阪府内で何度か移転があったそうで、この地にあった時もあったようです。
大阪大倉商業学校跡地碑から川沿いに西に300ⅿほど行くとリーガロイヤルホテルがあり、その敷地内に蔵屋敷跡という碑がたっています。何藩の蔵屋敷かは書かれていませんが、ここはもともと高松藩の蔵屋敷があったそうです。