大阪市北区の西側に大阪環状線の天満駅があり、その駅前に南北に延びているのが天神橋筋商店街です。
この天神橋筋商店街は全長約2.6kmで、日本一長い商店街とされています。
天神橋筋商店街の3丁目界隈は東西に寺が多く並んでおり、商店街から東に150ⅿほど行ったところにある成正寺という寺には、1837年に大塩平八郎の乱を興した大塩平八郎の墓があります。
境内にある大塩平八郎の墓。隣には息子(養子)・格之助の墓もあります。大塩平八郎はここ大阪・天満の生まれで、大坂町奉行所の元与力という役職を経て、1837年、米不足をきっかけに徳川幕府に対して反乱を起こしました。
乱後、幕末の追っ手に捕まることを危惧した大塩平八郎は、息子・格之助とともに自決し、45歳の若さで亡くなりました。
境内には「大塩の乱に殉した人々の碑」も立っています。
また天神橋筋商店街3丁目界隈から今度は東へ500ⅿほど行くと龍海寺という寺があり、ここには江戸時代の大阪出身の蘭学者・緒方洪庵の墓と、その教え子の1人である大村益次郎の足塚があります。
緒方洪庵の墓。緒方洪庵は江戸時代に大阪に適塾という塾を開き、後に幕末に大いに活躍する大村益次郎や福沢諭吉らを輩出しました。
晩年は幕府の要請によりここ大阪を離れ江戸に出仕しましたが、その江戸の医学所で倒れ、54歳でこの世を去りました。
墓にはなぜか「洪庵緒方」先生と書かれており(笑)、その横には奥様の墓が並んでいます。
大村益次郎足塚
緒方洪庵夫婦の墓の傍には「大村兵部大輔埋腿骨之地」と書かれた碑もあります。これは大村益次郎の足塚だそうです。大村益次郎は1868年に京都で襲われ最終的には大阪の病院で46歳の若さで亡くなりましたが、最後の手術の際、切断した足を「緒方洪庵先生の墓の傍に埋葬してほしい」との遺言を残したことから、ここに足塚があるそうです。
天神橋筋商店街を更に南下すると国道一号線にぶち当たり、その交差点から南東に150ⅿほど行ったところに、繁昌亭という寄席があります。
大阪には意外なことにここ半世紀寄席がなかったらしく(桂文枝氏曰くかなりの悪戦苦闘があったとのこと)、桂文枝らの活動の結果、2003年にようやくこの繫昌亭が完成したそうで、現在はここで定期的に上方落語を聴くことができます。
繫昌亭の南側にある大阪天満宮。この大阪天満宮はこの界隈の地名「天満」の由来の神社であり、また日本三大祭の1つである天神祭が開催される神社としても有名です。
大阪天満宮の南西側の入口・蛭子門の前に、大阪ガラス発祥の地碑があります。
ガラスはもともと1500年代に西洋から長崎に伝わったものらしいですが、当時の大坂の職人が長崎にガラス製法を学びに行き、その後ここ大阪でガラス事業を始めたことから、ここにその碑が立っているそうです。
そのような経緯らしいので、碑の右上に小さく「大阪」と書かれているのがいかにも大阪らしいです(笑)
大阪天満宮の南側にある「相生楼」という料亭の前に、川端康成生誕の地碑が立っています。
川端康成は言わずと知れたノーベル賞作家ですが、伊豆や雪国が舞台の作品が有名なせいか、あまり大阪出身というイメージがない気がします;
天神橋筋商店街と国道一号線の交差点から国道一号線を東に800mほど行ったところに、大塩の乱 槐(えんじゅ)跡の碑が立っています。
槐というのは木の名前だそうで、1837年の大塩平八郎の乱の際に砲弾を受けた槐の木がこの地にあったということです。
「大塩の乱 槐跡」碑から南に50ⅿほど行ったところに、洗心洞跡と書かれた碑があります。
先進洞というのは大塩平八郎が開いた私塾だそうで、1837年に勃発した大塩平八郎の乱は、ここで最初に大砲が放たれたことにより始まったそうです。
洗心洞跡碑から南西へ70ⅿほど行った住宅街に、与力役宅門という古い武家屋敷風の建物があります。
これは江戸時代の大阪東町奉行配下の天満与力・中嶋家の役宅門らしく、当時この付近一帯は天満与力の役宅が軒を並べていたそうですが、現在はこの建物が唯一残存するものなんだそうです。
与力役宅門の前に滝川小学校があり、その小学校の西側に、川崎東照宮跡と書かれた碑が立っています。
江戸時代以降、徳川の威光を示すため全国各地に東照宮が築かれましたが、ここ大阪には東照宮のイメージが全然なかったところ、1615年の大坂夏の陣後、大坂城主となった松平忠明(ただあきら)がこの地にやはり建てていたそうです。
しかしこの地にあった川崎東照宮は、1837年の大塩平八郎の乱により焼失してしまったとのことです。
大塩の乱槐跡碑から国道一号線を東に150ⅿほど行ったところに、造幣局本局があります。
造幣局は日本の硬貨を造っているところで、ここが本局で、支局が埼玉県と広島県にあるそうです。この本局の敷地内には造幣博物館もあります。
ちなみに紙幣の方は東京の国立印刷局で造っています。
造幣局本局から国道一号線を挟んだ向かい側に、泉布観という歴史的建造物があります。
この泉布観は造幣局の応接所として1871年に完成したものだそうで(「泉布」というのは貨幣という意味だそうな)、建物の中には入れませんが、現在大阪府に現存する最古の洋風建築だそうです。
泉布観と同じ敷地内にある旧桜宮公会堂。この古い正面玄関ももともと造幣局の鋳造所の正面玄関だそうで、その正面玄関のみ再利用し、1935年からは桜宮公会堂として活用されるようになったそうです。