淀屋橋~北浜界隈

御堂筋

 大阪の大動脈・御堂筋。大阪駅前から難波駅前までを南北に貫くこの大道路は、大正時代に第7代大阪市長・関一らにより大部分がつくられ、今も大阪都市計画の象徴的な道路として重要な役割を担っています。

 なお大阪の中心部は京都と同じく碁盤目状に道路が交差しており、南北にこの御堂筋の他谷町筋・四ツ橋筋・心斎橋筋などの「筋」、東西に土佐堀通・本町通・中央大通などの「通り」が走っています。

御堂筋
御堂筋

淀屋の屋敷跡

 淀屋橋南詰のすぐ西側に、淀屋の屋敷跡があります。

 淀屋というのは、江戸時代「天下の台所」であったここ大坂で全国の米相場の基準となる米市を設立するなどした豪商で、江戸時代の大坂の発展に大きく寄与したそうで、傍にある「淀屋橋」もこの淀屋に由来するそうです。

淀屋の屋敷跡
淀屋の屋敷跡

林市蔵像

 淀屋の屋敷跡の隣には、林市蔵という人の銅像が。この人は熊本出身の明治~昭和期の政治家で、三重県知事、山口県知事、第15代大阪府知事を歴任した人物だそうです。

林市蔵像
林市蔵像

適塾跡

 淀屋橋南詰から南東へ200ⅿほど行ったところに、幕末に蘭学者・緒方洪庵が開いた適塾跡があります。

 この適塾は大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介、武田斐三郎、橋本佐内など、幕末・明治期以降に活躍する多くの人材を輩出しており、同じく幕末以降に多くの人材を輩出した萩・長州藩の松下村塾にも負けていません。そんな歴史的な建物が今もなおここに残っていることがすごいです。

 ちなみにこの適塾は今の大阪大学・慶応義塾大学の源流の1つだそうで、更にちなみに手塚治虫の祖祖父である手塚良仙もここの塾生だったそうです。

適塾跡
適塾跡

緒方洪庵像

 適塾の東側の広場にある緒方洪庵像。適塾を開き多くの人材を輩出する一方、当時問題になっていた天然痘の治療にも尽力しました。

緒方洪庵像
緒方洪庵像

愛珠幼稚園

 適塾跡の南側にある愛珠(あいしゅ)幼稚園。木造の御屋敷っぽいこの幼稚園は大阪最古の幼稚園で、また木造の園舎は現存する園舎としては日本最古のものだそうです。

愛珠幼稚園
愛珠幼稚園

銅座の跡

 愛珠幼稚園前に立つ銅座の跡碑。江戸時代、ここで銅の取引が行われていたそうです。

銅座の跡
銅座の跡

緒方ビル

 愛珠幼稚園の前に立つ緒方ビル。その名が緒方洪庵に由来すると思われるこのビルは、緒方洪庵が江戸時代に設立した除痘館跡に立っており、ビルの中には医院やクリニックがたくさん入っており、また4階には除痘館記念資料室があります。

緒方ビル
緒方ビル

除痘館跡

 緒方ビルの南側入口付近にある除痘館跡の碑。江戸時代多数の死者を出していた天然痘に対処するため、洪庵はこの地に除痘館を設立し、予防のための種痘に尽力しました。

除痘館跡
除痘館跡

懐徳堂旧阯碑

 愛珠幼稚園から西に150ⅿほど行った明治生命館の南側に立っている懐徳堂旧阯碑。

 懐徳堂というのは1724年に中井甃庵(しゅうあん)らが創設した学問所で、大阪大学文学部の前身にあたるそうです。 

懐徳堂旧阯碑
懐徳堂旧阯碑

除痘館発祥の地

 懐徳堂跡旧碑から御堂筋を隔てて南西へ300ⅿほど行った美々卯という店の前に、除痘館発祥の地碑があります。

 緒方洪庵が一番最初に除痘館を設立したのがこの地であり、その後今の緒方ビルの場所に移動したそうです。

除痘館発祥の地
除痘館発祥の地

御霊文楽座跡

 除痘館発祥の地碑から南に120ⅿほど行ったところに御霊神社があり、その鳥居の横に御霊文楽座跡があります。

 文楽座は人間浄瑠璃の劇場のことで、江戸時代からここ大阪で盛んに興行されており、この御霊神社にも一時期その文楽座があったとのことです。

御霊文楽座跡
御霊文楽座跡

旧鴻池家本宅跡

  適塾跡から東へ200ⅿほど行った大阪美術倶楽部という建物の前に、旧鴻池家本宅跡と書かれた碑があります。

 江戸時代初期、伊丹で酒造業を始めた鴻池家はその後海運業・両替屋でも成功を収め豪商となり、明治以降には後に三菱東京UFJ銀行(三和銀行)となる第十三国立銀行も設立しました。

 旧鴻池家本宅跡
旧鴻池家本宅跡

五代友厚像

 旧鴻池家本宅跡から北へ200ⅿほど行った土佐堀通り沿いの光世証券ビルの中に、椅子に座った若かりし頃の五代友厚の銅像があります。

 五代友厚は薩摩藩出身で、幕末ヨーロッパに留学し、帰国して明治維新後は大阪府権判事などに任じられ大阪に赴任、その後

実業界の世界に入り、紡績や海運など大阪の多くの事業に携わったほか、大阪株式取引所や大阪商法会議所、大阪商業講習所(大阪市立大学の前身)を設立するなど、大阪の産業・経済の発展に大きく貢献しました。

五代友厚像
五代友厚像

大阪俵物会所跡

 光世証券ビルから東に100ⅿほど行った土佐堀通りと堺筋の交差点に、大阪俵物会所(たわらものかいしょ)跡の碑が立っています。

 江戸時代、海産物を長崎から海外に輸出するため、ここで俵詰めにして長崎に送っていたそうです。

大阪俵物会所跡
大阪俵物会所跡

大阪取引所

 大阪俵物会所跡碑から堺筋を挟んだ向かいにある大阪取引所。2014年までは大阪証券取引所でした。この洋風の建物は1935年に建てられたもので、入り口前には明治期にこの取引所を設立した五代友厚の銅像が立っています。

大阪証券取引所
大阪証券取引所

五代友厚像

 大阪取引所前に立つ五代友厚像。光世証券ビルの銅像から年を重ねており(笑)、かなりカッチョいい銅像です。ここ大阪における五代友厚への親しみ・敬いの心が分かります。

五代友厚像
五代友厚像

大阪会議開催の地跡

 大阪取引所から土佐堀通りを更に東に200ⅿほど行ったビルの壁に、5人のおじさんの顔(笑)と「三権分立  漸次立憲  合意に至る(大阪会議)」と書かれたレリーフがあります。

 この5人は大久保利通、木戸孝允、板垣退助、伊藤博文、井上馨で、1875年にこの地で「大阪会議」というのを開きました。

 この大阪会議は、当時政府の首脳であった大久保利通と、征韓論を発端にして起こった明治6年の政変により下野した木戸孝允と板垣退助、そしてこの3人を仲介した伊藤博文と井上馨があつまり、今後の政府のあり方について議論した会議であり、この会議により、今後の日本政治が三権分立及び二院制議会により運営されていくことが決まったそうです。

 なお当時すでにここ大阪で実業家として活躍していた五代友厚も、この大阪会議の開催に尽力したとされ、大久保や伊藤らはこの付近にあった五代邸を頻繁に訪れていたそうです。

 ビルの壁にある大阪会議のレリーフ。集まった大久保利通、木戸孝允、板垣退助、伊藤博文、井上馨5人の顔が描かれています。

大阪会議開催の地跡
大阪会議開催の地跡

 地上には「大阪会議開催の地」と書かれた碑が立っています。

 またこの中央区の北浜界隈には、明治~昭和初期の大阪の繁栄を物語るように、当時の個性的でレトロな建築物が多く残っています。