浦賀・久里浜は三浦半島の南東の端にあり、ペリーが来航した場所として有名。幕末からの日本の近代化はこの地から始まりました。
その地にある京急浦賀駅。東京駅から電車で約1時間半で着きます。三浦半島はJRも走っていますが、やはり京急電鉄のイメージが強いです。
浦賀の街中にある看板。やはり浦賀は「黒船来航の地」です。
浦賀駅から歩いて5分くらいのところに、「頓営跡の碑」の案内板が立っています。ここに1872年、水兵の基礎教育機関である「海軍浦賀頓集所」が設置され、数多くの水兵を送り出したそうです。
ただ碑はこの敷地の中にあるのか、見当たりませんでした。
また更に行ったところに、「浦賀ドック」の案内板があります。幕末から浦賀には多くの造船所があり、勝海舟が乗った咸臨丸などもこの浦賀ドックで修理したそうです。
浦賀駅から北東に1.5kmほど行ったところに、御所ヶ崎という小さな岬があります。案内板によると、古事記・日本書紀の時代、日本武尊が東国征伐の折ここから上総(千葉)に船で渡ろうとしたとき、海が荒れて進めず、弟の橘媛(たちばなひめ)が海神の怒りを鎮めるために身を投じ海を鎮めたそうです。
また幕末は、江戸湾海防のためここに大砲を配備し、異国船の侵入に備えたそうです。
御所ヶ崎という地名は、日本武尊がこの地に臨時の御所を設けたことからその名が付いたとのことです。
御所ヶ崎界隈には寺社がいくつかありますが、その中の1つに走水神社があります。
走水(はしりみず)という地名は変わっていますが、その地名は御所ヶ崎の由来と同じく、早くも古事記や日本書紀に出てくるそうで、やはり日本武尊とその弟橘媛を祭神として祀っているそうです。
御所ヶ崎から東に進むと、三浦半島の先端の1つ・観音崎に到達します。
観音崎から浦賀港へ向かうと、東叶神社があります。この東叶神社は、幕末に勝海舟が断食を行った場所でもあります。
またこの東叶神社の浦賀港を挟んだ反対岸には西叶神社があります。
東叶神社の周辺にはいくつか寺がありますが、その一つに東林寺という寺があり、ここに中島三郎助のお墓があります。
中島三郎助は幕末浦賀奉行所与力という役職で、ペリー来航の際、ペリーが乗ってきた黒船・サスケハナ号に乗船し応対を行った人物です。その後は長崎の海軍伝習所に入所して造船学等を修め、東京・築地の軍艦操練所で講師をしたり、ここ浦賀に帰ってきて咸臨丸の修理なども行ったそうです。
その後の戊辰戦争では榎本武揚らと行動を共にし、最期まであくまで幕府軍としての行動を貫き、函館戦争で戦死しました。
函館の中島三郎助の最期となった地は、中島町と名付けられているそうです。
そして東林寺の近くに、「吉田松陰・佐久間象山相会処(徳田屋)」の碑がひっそりと立っています。
幕末、外国船が日本に近づくようになると、ここ浦賀に要人が多く訪れるようになりました。ここにあった徳田屋という旅館にも、吉田松陰と佐久間象山が訪れ、ここで黒船の対応等について話し合ったそうです。
そして浦賀港を跨いで西側に行ったところに、西叶神社があります。この神社も東叶神社と同様、源氏と関係があるようです。
西叶神社の南側に、小高い丘になっている愛宕山公園があります。愛宕山公園には、中島三郎助の招魂碑と咸臨丸出航の碑などがあります。
愛宕山公園から少し南に行って込み入ったところに、浦賀奉行所跡があります。
浦賀奉行所は1720年からここにあったそうですが、幕末、外国船が来るようになって以降、とても重要な役割を果たすようになったとのことです。
浦賀港の西側を南下した端に、燈明堂跡があります。
今ある燈明堂は復元されたものですが、1642年から1872年まで灯台の役割を果たしていたそうです。
燈明堂跡から西に行き川を渡ったところ、また久里浜駅から海側に1.5㎞ほど行ったところに、ペリーが浦賀に来航したことを記念して整備されたペリー公園があります。公園には「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」と書かれた碑と、ペリー記念館があります。