敦賀港は1902年から1941年にかけて、東京・新橋からロシア・ヨーロッパへと続く「欧亜国際連絡列車」の停車駅として栄えました。欧亜国際連絡列車は新橋~敦賀が列車、敦賀~ウラジオストクが船、そしてウラジオストク~ヨーロッパがシベリア鉄道という経路で、当時の東京からヨーロッパまでの最短経路でした。
敦賀港の地面は、当時のように世界に開く敦賀をイメージした絵が描かれています。また面している敦賀湾の海も綺麗です。
旧敦賀港駅舎
敦賀港には、欧亜国際連絡列車が走っていた頃に敦賀港にあった敦賀港駅の駅舎が再現されています。
敦賀港駅ランプ小屋
また敦賀港駅関連として、港の近くにはレンガ造りの「敦賀港駅ランプ小屋」があります。この小屋は列車の灯火に使用されるカンテラの燃料を保管する倉庫として使用されていたそうです。
人道の港 敦賀ムゼウム
またもう一つ、敦賀港に「人道の港 敦賀ムゼウム」という洋風の建物があります。第2次世界大戦当時、リトアニアの外交官であった杉原千畝が、ナチス・ドイツの迫害を受けていた難民達を救うため、外務省命令に反して「命のビザ」を大量に発行して日本に逃したという出来事がありました。その杉原千畝が救った難民たちがここ敦賀の地から日本に上陸したことから、ここにそのエピソードを紹介する「人道の港 敦賀ムゼウム」が建てられたそうです。
また敦賀港には北前船のモニュメントがあります。敦賀港は江戸時代は江戸時代で、関西~北海道を結ぶ北前船の主要な港町として栄えていました。
大和田荘七翁之像
また敦賀港の近くの市民文化センター前に、「大和田荘七翁之像」があります。この人は明治~昭和にかけての敦賀出身の実業家で、敦賀の地銀である大和田銀行の創始者らしいです。驚くべきことに、俳優の大和田伸也・大和田獏兄弟はこの大和田荘七の子孫だそうです(笑)
芭蕉翁月塚
市民文化センターには「芭蕉翁月塚」もあります。石碑には芭蕉が敦賀で見た月に感動して詠んだ歌「国々の 八景更に 気比の月」が刻まれています。