会津若松駅から東へ2㎞ほど行ったところにある山が飯盛山といい、幕末の会津の地で起きた悲劇の象徴とも言える白虎隊自刃の地でもあります。
駅から飯盛山へ向かう道には観光地であるだけにお土産屋さんが軒を連ねており、その先には山に登るように親切にスロープ・コンベアまであります♪
駅から飯盛山へ登っていくと、まず左側に白虎隊について紹介した記念館があります。
白虎隊とは会津藩の軍隊の1つで、白虎隊の他に年齢順で上から玄武隊、青龍隊、朱雀隊とあり、白虎隊が一番若い隊で16・17歳の若者で構成されていました。
幕末に起きた戊辰戦争で、幕府に忠誠を尽くす会津藩は新政府軍と戦うも苦戦、白虎隊も猪苗代湖近くの「戸ノ口原」で戦いましたが退却をせざるを得ず、ここ飯盛山まで戻ってきたところで会津若松城の炎上を目撃、会津藩の勝利を諦め、戻ってきた約20名がこの地で自刃しました。
その白虎隊について紹介したのがこの白虎隊記念館なのです。
白虎隊記念館前にある酒井峰治像。この写真にも書いてますが(笑)、この銅像は、戸ノ口原の生存白虎隊22人の1人である酒井峰治が、鶴ヶ城に入城するため1人山間を退却中愛犬クマが飯盛山の裏手に出迎えた時のものだそうです。その後酒井峰治は1932年まで生きたそうです。
2人の若い白虎隊士の勇ましい銅像もあります。
白虎隊記念館から更に北に行くと、旧滝沢本陣があります。ここはもともと参勤交代の時などの際の休憩場所だそうですが、戊辰戦争時は会津藩の本営となり、白虎隊はここで当時の会津藩主である松平容保の命をうけて戸ノ口原戦場へと出陣していきました。
白虎隊記念館から東に行くと小さな厳島神社という神社があり、そこに白虎隊が戸ノ口から命からがら逃げてきた洞穴があります。
白虎隊が戸ノ口の戦いの場から逃げてきた戸ノ口堰洞穴。もともとはこの会津地方に猪苗代湖から水を引くために工事して開けた穴だそうです。
さざえ堂
戸ノ口堰洞穴の南側に、木造の不気味な建物・さざえ堂があります。
さざえ堂は1796年に建てられたもので、この小さい建物の中に2つの螺旋階段があり、上りと下りが別の通路になっている摩訶不思議な建物です。中には西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるそうです。 入口の彫刻もかなり立派なもので、外観もアンバランスでかっこいいです。
・・・という説明からも分かるとおり、この建物は白虎隊とは無関係です(笑)
さざえ堂の向かいには「宇賀神堂」というお堂があり、ここ飯盛山で自刃した白虎隊19士が祀られています。
そしてさざえ堂から東に上ったところに、白虎隊のお墓があります。ここにはここ飯盛山で自刃した19人と、戦死した31人の白虎隊隊士の墓があります。
松平容保公弔歌の碑
会津藩主・松平容保が自刃した白虎隊士を偲んで詠んだ歌碑もあります。「幾人の涙は石にそそぐとも その涙は世々に朽じとぞ思う」と刻まれています。
白虎隊の墓に向かって左側に、「会津藩殉難烈婦の碑」があります。この碑は戊辰戦争で自刃又は戦死した婦女子200余名の霊を弔うために建てられたそうです。
白虎隊士の墓に向かって会津藩殉難烈婦の碑と反対側には、ローマ記念碑があります。これは白虎隊の精神に深い感銘を受けたローマ市から寄贈されたものだそうで、鳥がとまっている円柱はポン系の廃墟から発掘した古代宮殿の柱だそうです。ちなみにこの柱の裏面には「武士道の精神に捧ぐ」と刻まれていましたが、第2次世界大戦後、占領軍の命により削り取られたとのことです。
白虎隊の墓から南に行くと、飯盛山で自刃した白虎隊の生き残りである飯沼貞吉の墓があります。飯沼貞吉もここ飯盛山で自刃しようとしましたが死に至らず生き残り、その結果この人が後年この飯盛山での出来事を話したことから、白虎隊の悲劇が後世に伝わることとなったようです。
ちなみに飯沼貞吉氏はその後通信技師として働き日清戦争にも従軍し、享年77歳、1931年まで生きたそうです。
郡上藩 凌霜隊之碑
飯沼貞吉の墓の近くに、「郡上藩 凌霜隊(りょうそうたい)之碑」があります。これは会津藩の援軍のため岐阜の郡上藩から駆け付けた凌霜隊という部隊を顕彰する碑だそうです。
白虎隊士自刃之跡
飯沼貞吉の墓から南に下ったところが、「白虎隊士自刃の跡」です。戸の口の戦いから白虎隊士約20名は、ここで火の手が上がる会津若松城を見て(実際城から火は出ていなかったそうですが)戦いを諦め、全員で自刃したとのことです。中央の白虎隊士が眺める方向に、今も会津若松城が見えます。
自刃の地から眺める景色。中央に小さく会津若松城が見えます。