函館市内の中心部は市電が走っており、函館駅から北東の五稜郭・湯の川温泉方面と南西の函館山・函館湾方面に伸びています。
特に函館駅前から南西の函館山・函館湾方面に走る国道279号線の市電通り沿い、ベイエリアと函館山・元町に挟まれた通りは、 古い洋風の建物が立ち並び見所も多いです。
高田屋嘉兵衛資料館から程近い、市電が二又に分かれる“十字街”に、「坂本龍馬記念館」があります。
なぜ北海道のここ函館に坂本龍馬??確か龍馬は一度も北海道には来なかったはず…と思ったのですが、その経緯を見ると、 確かに龍馬は蝦夷地行きを何度か試みるも結局一度もその地に踏み入ることはなかったのですが、しかし彼の死後、坂本家の子孫の方々が その意志を継いで北海道に渡ったのだそうです。
北海道上陸を夢見た坂本龍馬の夢を叶えるため、またその子孫の方々の調査・研究の記録を残すため、この記念館はここに建てられたのだそうで、現在の記念館の運営も、坂本家の子孫の方が行っているそうです。
記念館前には坂本龍馬像があります。龍馬の銅像は全国にありますが、 北海道ではここだけで、日本最北の坂本龍馬像です。
十字街から市電通りを函館どっく方面へ歩くと、北方歴史資料館があります。
この資料館は高田屋嘉兵衛をはじめとした高田家代々の遺品・史料を展示しており、運営は嘉兵衛の子孫の方々が 行っているそうです。
それにしても、この北方歴史資料館と前述の坂本龍馬記念館は歩いて5分くらいの距離にありますが、坂本龍馬の子孫の方と高田屋嘉兵衛の子孫の方がここ函館の地でこんなに近くにいることが、何だか不思議な感じがします。
資料館横にある恵比寿神社は、高田屋の守護神とのことです。
他にも市電通り沿いには、函館市文学館、北方民族資料館、そして北島三郎記念館等の文化施設(?)があり、その建物自体も独特だったり 歴史的建築物だったりします。 サブちゃんは北海道・渡島半島の函館の南西にある知内町の出身だそうですが、高校時代にここ函館の高校に通い、その時に函館で 開催されたNHKの「のど自慢」に出場し、歌手を志したそうです。
なお北島三郎記念館のお土産コーナーは無料で行けました。さすがサブちゃん一色であります。
他にもこの市電通り界隈にはレトロな建物がたくさん建っており、歩いていて全く退屈しません。
さすがは幕末にいち早く開港した土地なのですが、その建物が役割を終えても、できるだけ生かして他の役割を担い 街づくりをしているのが伝わってくるのが、函館の素敵なところです。
こちらは旧安田銀行函館支店。その後ホテルとなりましたが、 今は閉館しているそうです。
基坂付近にある相馬株式会社。 メルヘンチックな外観ながら今もバリバリの現役の社屋だそうです。
十字街にある地域交流まちづくりセンター。旧丸井百貨店だそうです。
大町1丁目の交差点にある中華会館。市内の華僑の人々が1910年に建築したそうです。
北方民族資料館から更に函館どっく方面へ歩くと、「高田屋本店跡」の碑があります。
高田屋嘉兵衛は今の高田屋嘉兵衛資料館の辺りに造船所を 造り、ここで店を営んでいたということです。今は「じょう蔵」というペンションが建っています。
市電の港側の終点・「函館どっく前」から魚見坂・寺町通りへ入る入口に、「弁天岬砲台跡」と「新撰組最後の地」の碑があります。
箱館戦争が勃発していた1869年(明治2年)、新撰組の残余兵約百数名は、旧幕府軍の一隊として、ここにあった弁天台場を守っていましが、 1869年5月15日、新政府軍の猛攻撃によりついに降伏したということです。
土方歳三が五稜郭を飛び出し一本木関門で討たれたのが1869年5月11日とされているので、そのわずか4日後に新撰組はここ弁天砲台で 降伏したということになります。
寺町通りを上り小学校を左に入ると、称名寺というお寺があります。ここには函館に縁のある人物に関する碑がいくつかあります。
寺町通りをさらに上ると、外国人墓地があります。古くから国際的な貿易港であっただけに、ここ函館で亡くなった外国人も多かったということです。
海がすぐそばにあり、とても眺めが良いです。