萩城~土原界隈

 萩市中心部の北半分。こちら側も萩城があって城下町ならではの風情があり、直線の道と夏みかんがとてもいい感じです。

円政寺

 萩市の中心部にある中央公園の西にある堀を渡って北へ100mほど行くと、円政寺という小さな寺があります。

 ここは伊藤博文・高杉晋作が幼少期の頃に勉強をしていたお寺だそうです。

円政寺
円政寺

青木周弼旧宅

 円政寺の隣に、青木周弼旧宅があります。青木周弼というのは江戸時代後期に活躍した医者・蘭学者だそうで、東京で緒方洪庵らとともに医学・蘭学を学び、その後は長州藩に戻って藩の医療の発展に貢献したそうです。

青木周弼旧宅
青木周弼旧宅

木戸孝允誕生地

 青木周弼旧宅の更に隣の隣に、木戸孝允の旧宅・誕生地があります。

 木戸孝允は別名桂小五郎、幕末は長州藩の中心人物として薩摩藩とともに討幕に尽力、維新後は文部大臣・内務大臣として廃藩置県、版籍奉還、憲法制定などに尽力し、西郷隆盛・大久保利通とともに維新三傑の1人に数えられます。しかし1877年に西郷隆盛ら旧薩摩藩士が新政府に対して蜂起した西南戦争の最中、京都で病気のため45歳の若さでこの世を去りました。

木戸孝允誕生地
木戸孝允誕生地

高杉晋作立志像

 中央公園から西へ堀を渡って150mほど行くとちょっとした広場があり、そこに高杉晋作立志像があります。

 高杉晋作は松下村塾を出た後江戸へ剣術を磨きに遊学、その後長州藩に戻って攘夷運動に没頭し、旧幕府軍の長州征伐に対して奇兵隊を率いて戦うなどしましたが、1867年に病気で29歳の若さで亡くなりました。

高杉晋作立志像
高杉晋作立志像

高杉晋作誕生地

 高杉晋作立志像から北へ100mほどのところにある高杉晋作の誕生地。

 幕末~明治期、特に幕末における長州藩は起爆剤というか、松陰が開いた松下村塾の影響か、少しヤバい人たちの集まりのイメージがありますが(笑)、その中でもこの高杉晋作は特に狂人的な要素があるように思われ、しかしそういった狂人的で短命であった高杉晋作や吉田松陰のような人物の方が、維新三傑と言われる木戸孝允や初代内閣総理大臣になった伊藤博文らよりも、ここ地元・萩や日本においても人気があるように思います。

高杉晋作誕生地
高杉晋作誕生地

田中義一誕生地

 高杉晋作誕生地から北へ100mほどのところには、昭和期に第26代内閣総理大臣を務めた田中義一の誕生地があります。

田中義一誕生地
田中義一誕生地

田中義一像

 田中義一誕生地から北西へ300mほど行ったところにちょっとした広場があり、そこには田中義一の銅像が立っています。

田中義一像
田中義一像

旧明倫館跡

 田中義一像から南西へ500mほど行ったところに、旧明倫館跡の碑が立っています。

 明倫館は江戸時代に長州藩が創設した藩校で、現在明倫小学校のある場所にありましたが、その前はもともとここにあったらしいです。

旧明倫館跡
旧明倫館跡

萩城跡

 田中義一像から北西へ1㎞ほど行くと、こんもりした小高い指月山があり、その麓に萩城跡があります。

 萩城は1604年に豊臣秀吉亡き後の5大老の1人で長州藩の藩祖である毛利輝元が築城し、以後幕末まで長州藩主の居城となり続けました。

 その後明治維新を経て廃城令により天守閣などはなくなり、今は石垣のみ残っています。

萩城跡
萩城跡

毛利輝元公像

 萩城跡近くにある毛利輝元公の銅像。戦国時代を生き抜き、藩祖として長州藩の礎を築いた人物ですが、その後跳ぶように出てきた幕末の志士たちに押され、このかつての居城である萩城内にひっそりと鎮座している感じです;

毛利輝元公像
毛利輝元公像

 萩城跡近くの風景。川が静かで石垣と緑が綺麗です。

 明倫小学校から北東へ1kmほど行ったところに、長州藩時代牢獄であった野山獄跡と岩倉獄跡が道路を挟んで向かい合うようにしてあります。

野山獄跡

 こちらは野山獄跡。1854年のペリー来航時に密航を企てた吉田松陰が、江戸の小伝馬町老屋敷に投獄された後こちらに送還され、この野山獄に投獄されました。松陰はこの野山獄に投獄中も様々な勉学に励み、ここを出た後に松下村塾を開くことになります。

 なおこの野山獄には高杉晋作も、一時期藩と対立し投獄されていたそうです。

野山獄跡
野山獄跡

岩倉獄跡

 こちらは野山獄跡の向かいにある岩倉獄跡。こちらは野山獄に対して庶民を対象にした牢獄で、こちらには松陰の従者として松陰とともに海外密航を企てた金子重輔が収容されました。

 現在の岩倉獄跡には金子重輔の詩碑と松陰が重輔のために詠んだ詩碑が建てられています。

野山獄跡
野山獄跡

前原一誠旧宅

 野山獄跡・岩倉獄跡から東へ1㎞ほど行ったところに、前原一誠旧宅があります。

 前原一誠も松下村塾出身で新政府軍として戊辰戦争に参戦し、維新後は参議として新政府入りするも木戸孝允、大久保利通らと意見が合わず萩に下野、1876年に明治政府に不満を持つ不平士族とともに萩の乱を起こしましたが捕えられ、43歳で斬首刑となりました。

前原一誠旧宅
前原一誠旧宅