本町界隈の東西にのびる中央大通りの上には高速道路が走っており、その下のスペースを利用するように船場センタービル1~10号館があります。
この船場センタービルは大阪で万博が開かれた1970年に完成したそうで、まるでセンタービルの上に高速道路が乗っかっているような大胆な構造が大阪らしくて面白いです。
なお写真は茶色の外観ですが、その後外観工事が行われ、今はもう少し綺麗になっているそうです。
中央大通りから御堂筋を南に80ⅿほど行った緑地帯に、「此附近芭蕉翁終焉ノ地」と書かれた碑がひっそりと立っています。
奥の細道などで有名な松尾芭蕉ですが、ここ大阪の地で終焉を迎えたことはあまり知られていません。 1694年、松尾芭蕉はここ大阪を訪れた際に体調を崩し、ここにあった屋敷で51歳でその生涯を終えたそうです。
芭蕉終焉の地碑の西側の御堂筋沿いにある南御堂。この南御堂の正式名称は「真宗大谷派難波別院」といい、戦国時代からある由緒あるお寺だそうで、境内には芭蕉辞世の句と言われる「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」が書かれた句碑があります。
ちなみにこの南御堂から北に500ⅿほど行った御堂筋沿いには本願寺津村別院、通称「北御堂」があり、この北御堂と南御堂が御堂筋の名前の由来だそうです。
南御堂から南へ150ⅿほど行ったところに難波神社という神社があり、その入口の鳥居の横に稲荷社文楽座跡と書かれた碑が立っています。御霊神社にある御霊文楽座と同様に、ここにも江戸時代に人間浄瑠璃を行う小屋があったそうです。
稲荷社文楽座跡のある難波神社から東に500ⅿほど行ったところに、太閤路地の説明が書かれた碑があります。
説明には秀吉が大阪を治めていた時に力を入れていた太閤下水について書かれており、この碑の下にも当時の下水が流れ、今も生活に使われているそうです。
太閤路地の説明の碑から堺筋沿いを南に150ⅿほど行ったところに、堺筋倶楽部という、小さいながらも重厚感のある西洋風の建物があります。この建物はもともと1931年に川崎貯蓄銀行という銀行の大阪支店として建てられた建物らしく、今はおしゃれなレストラン兼結婚式場として使われているそうです。
また難波神社から南東へ300ⅿほど行ったところに、大阪書籍館跡という説明版があります。
この大阪書籍館というのは1876年に建てられた、今でいう図書館の先駆けのようなものだったらしいです。
大阪書籍館跡の向かい側には橋本宗吉絲漢堂(はしもとそうきちしかんどう)跡という碑が。
橋本宗吉というのは江戸時代中期の大阪出身の蘭学者で、江戸に遊学などをした後この地で蘭学塾絲漢堂を開いたそうです。
その塾生の中には緒方洪庵の師匠となる中天游(なかてんゆう)がおり、大阪の蘭学の系譜はこの橋本宗吉が開いた絲漢堂から始まっていると言えます。