JR環状線の玉造駅。「玉造(たまつくり)」とはなかなか歴史がありそうな名前です。
玉造駅からその西にある日の出通商店街までの道は、ここにゆかりのある真田幸村にちなみ「玉造幸村ロード」と名付けられています。ちょっと即席な感じがしますが;
そして玉造駅から西へ200mほど行ったところに、真田幸村ゆかりの三光神社があります。
三光神社の西に「どんどろ大師」と呼ばれる善福寺があります。この辺りは豊臣方と徳川方が戦った大坂の陣の激戦地だったそうで、この寺は大阪夏の陣の戦死者を弔うために建てられたそうです。
その善福寺の前に、お弓・おつるの像があります。これは歌舞伎の「傾城阿波の鳴門」という演目のお弓とおつるの別れのシーンを再現しているものとのことです。
善福寺の左から伸びている心眼寺坂を上ると心眼寺があります。心眼寺は真田幸村の墓と、あと時代が違いますが幕末の京都見廻組の墓があります。
心眼寺坂を更に登ったところに、真田丸顕彰碑があります。真田丸の大部分はこの顕彰碑の後ろにある明星学園という学校にあったそうです。
この顕彰碑の説明の日付が平成28年1月となっているところを見ると、どうやらこの碑は平成28年に放送されていたNHK大河ドラマ「真田丸」放送に合わせてできたようです。
真田丸のあった大阪明星学園です。
ちなみに三光神社の南側には今も「真田山」という地名が残っており、「真田山公園」もあります。
真田山公園の西側には、「騎兵営跡」と書かれた碑があります。明治以降、ここに帝国陸軍の騎兵隊の敷地が広がっていたそうです。
また明星学園の西側に、鎌八幡という寺院があります。幸村はここで鎌を打ちつけ戦勝祈願を行ったそうです。
楞厳寺境内にある織田作之助の墓。織田作之助は昭和初期の作家で、大阪を舞台にした小説「夫婦善哉」が有名です。
楞厳寺から西に行った上町筋沿いに大福寺という寺があり、寺の門の前に浪華仮病院跡の碑が立っています。
明治2年、この地に仮ではあるものの大阪で初めての本格的な病院が建てられ、緒方洪庵の次男である緒方惟準が院長、オランダ人のボードウィンが主席教授となり、この病院が後の大阪大学医学部へと発展することになるそうです。
大福寺の境内にある大坂の仮病院跡の碑。緒方惟準院長と、ボードウィン主席教授の顔が刻まれています。
楞厳寺から南東に100ⅿほどのところにある高津高校の敷地内に、高津宮跡の碑があります。
高津宮は西暦450年前後、堺市の大きな古墳で有名な第16代天皇である仁徳天皇の時代の都で、どこにあったかは定かではないものの、この高津高校のある地がその有力候補なんだそうです。
真田山公園から南へ250ⅿほどのところに産湯稲荷神社があります。
ここはこの土地の開拓神である大小橋命(おほおばせのみこと)の誕生地で、境内にはその時の産湯の井戸が残っています。
境内にある大小橋命の産湯の井戸。この井戸はこの界隈にある真田幸村の抜け穴の1つとも言われています。