愛媛県の南西に位置する宇和島市にあるJR宇和島駅は、香川の高松駅から愛媛・松山駅を経由するJR予讃線と、同じく高松駅から高知駅を経由するJR土讃線の終着駅です。
宇和島駅から南西に200mほど行ったところに「穂積橋」という小さな橋があり、その傍に「ほづみ亭」というちょっとした料亭があります。この「穂積」というのは宇和島出身の明治・大正期の政治家で、日本で初めて法学博士の学位を取得した穂積陳重(ほづみのぶしげ)という人の名前から来ているらしく、この穂積陳重の死後銅像を作ろうという動きがあったところ、本人が生前に「老生は銅像にて仰がるるより萬人の渡らるる橋になりたし」という言葉を残していたことから、ここに「穂積橋」という名の橋がかけられたそうです。橋の傍にはその言葉の碑も立っています。
高野長英居住之地
ほづみ亭の奥に、高野長英居住之地があります。高野長英は江戸時代後期の岩手県水沢出身の蘭学者で、若いころはシーボルトに西洋について学び、開国をしない幕府を批判して江戸の伝馬町牢屋敷に入れられるもその後脱獄。当時の宇和島藩主であった伊達宗城に庇護されここ宇和島の地に住みました。しかしその後高野長英は再び江戸に出て、最終的に江戸で自害することになります。
そして高野長英居住之地から南西400mほどのところにある小高い山が、現存12天守の1つ・宇和島城のある城山公園です。
上り立ち門に立つ児島惟謙先生像から東へ200mほどのところに、「護憲の神様」児島先生生誕地碑があります。なお児島先生は大阪の関西大学の創始者の1人だそうです。
また上り立ち門から南へ300mほど行ったところに、江戸時代の宇和島藩主であった伊達氏について紹介する伊達博物館があります。宇和島藩の初代藩主は伊達政宗の息子である伊達秀宗で、徳川方で参戦した大坂夏の陣で功績をあげ、この宇和島10万石の藩主となりました。伊達家はその後明治が終わるまで9代続きました。
江戸時代歴代宇和島藩主の中で特に名藩主であったのが、第8代藩主である伊達宗城(むねなり)です。伊達宗城は幕末の混乱期に有事に備え宇和島藩の軍を整備するなどして近代化させるとともに、福井藩主の松平春嶽、土佐藩主の山内容堂、薩摩藩主の島津斉彬とともに「四賢侯」として大きな影響力を持ちました。
伊達博物館前のかなり広い道に、「宗城と西郷隆盛会見の場」の案内板があります。案内板によるとこの界隈はもともと伊達家の邸内で、1867年に伊達宗城に京都での四候会議開催の協力を求めるため西郷隆盛が来宇し、この場で2人で会見を行ったそうです。
「宗城と西郷隆盛会見の場」の後ろの広場に、薬師神岩太郎という人の銅像があります。この人は戦後の衆議院議員で、戦後の宇和島の発展に尽力した人物だそうです。
伊達博物館の南へ少し行ったところに、天赦園という綺麗な庭園があります。
天赦園から南東へ川を渡って300mほど行ったところに、大村益次郎居住跡があります。大村益次郎は幕末の山口出身の軍人・蘭学者で後に日本陸軍の創始者にまでなる人物ですが、若い頃は高野長英と同じく当時の宇和島藩主であった伊達宗城に呼ばれ、ここで蘭学を教えるとともに宇和島藩の軍制の整備に尽力しました。
宇和島駅から北へ300mほど行ったところに、和霊神社という立派な神社があります。
宇和島駅から西へ1kmほど行ったところに、洋風のレトロな建築物である宇和島市立歴史資料館があります。
そして宇和島駅から東へ500mほど行った丘の上に、宇和島闘牛場があります。