静岡県浜松市は人口約80万人の政令指定都市で、JR浜松駅は東海道新幹線も停まります。
徳川秀忠公誕生の井戸
浜松駅から北へ800mほど行った遠州鉄道の遠州病院駅の前に、徳川秀忠公誕生の井戸があります。徳川家康の側室・西郷局が、この辺りにあった井戸の産湯を使って秀忠を産んだそうです。
徳川秀忠公誕生の井戸から更に北へ700mほど行ったところに、椿姫観音というのがあります。
この椿姫というのは本当はお田鶴の方という名でかつて浜松にあった引間城という城の城主だったそうで、その後家康に滅ぼされ、この地に塚ができ、その周りが椿の花でいっぱいになったことから椿姫という名が付いたそうです。
徳川秀忠公誕生の井戸から北西へ600mほどの所に東照宮があります。
ここにはかつて今川方の武将・飯尾乗連(のりつら)の居城であった引間城がありましたが、後に家康が攻め滅ぼし、明治時代になりこの地に家康を祀った東照宮が建てられたそうです。
ちなみに今はここに家康と秀吉の銅像が立っているそうです。
徳川秀忠公誕生の井戸から西へ800mほどいった市役所の西側に、家康公鎧掛松があります。
この松は三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れ、浜松城に逃げ帰った家康が、この松に鎧を掛けたそうです。
そして家康公鎧掛松から北へ少し行くと、野面積みで名高い浜松城が立っています。
浜松城から257号線沿いに北へ1.2㎞ほど行ったところに、武田信玄と徳川家康が戦った三方ヶ原の戦いの激戦地と言われる犀ヶ崖(さいががけ)古戦場跡地に辿り着きます。
この三方ヶ原の戦いで家康は信玄に敗北、信玄はその勢いで三河へ侵攻し天下統一への道をい駆け上がろうとしますが、信玄は発病してしまい、この三方ヶ原の戦いのわずか1年後、甲斐に戻る途中に信濃で亡くなってしまいます。
犀ヶ崖古戦場跡にある三方が原古戦場碑。
三方ヶ原の戦いについて紹介した犀ヶ崖資料館もあります。
犀ヶ崖古戦場跡に、本田肥後守忠真の碑があります。
この本田肥後守忠真というのは徳川方の武将で、家康が敗走する際に殿(しんがり)を務め、最終的に討ち死にした忠臣だそうです。この本田肥後守忠真の甥が、後に徳川四天王となる本田忠勝だそうです。
犀ヶ崖古戦場跡地の道路を隔てた向かい側に、夏目次郎左衛門吉信という人の碑が立っています。
この夏目次郎左衛門吉信という人も家康の家臣で、三方ヶ原の戦いの際、家康の身代わりとなって討ち死にをした人物だそうです。本田肥後守忠真のエピソードにしろ、家康は人望があったんでしょうね。
浜松城から西へ2㎞ほど行ったところに、「大刀洗の池」の碑があります。
家康がまだ信長の家臣の頃、疑惑のあった家康の正室・築山御前が信長の命をもとに家康の家臣に切られ、その切った太刀がこの池で洗われたことからその名が付いたそうです。
また浜松城から257号線沿いに北へ10㎞ほどいった三方原墓園に、三方ヶ原古戦場跡碑が立っています。実際のところ三方ヶ原の戦いの激戦地がどこであったかは定かではないらしく、この三方ヶ原古戦場跡碑が立っているこの地もその候補地の1つなんだそうです。