水戸駅から西へ500mほど行ったところに、藤田東湖生誕の地があります。藤田東湖は9代藩主・徳川斉昭を補佐して藩政改革に尽力し、後年黒船が来航すると斉昭とともに江戸にも出ました。
ここ生誕の地には藤田東湖の銅像と産湯の井戸跡があります。ちなみに「東湖」という名前はこの生誕の地の東に湖(千波湖)があることに由来するそうです。
生誕の地にある藤田東湖の銅像です。水戸市中心部にはこのような小さめの銅像がたくさん立っています。
藤田東湖生誕の地沿いの道を北へ300mほど行くと国道50号線に出ますが、そこに徳川斉昭公の銅像があります。このサイズの斉昭公の銅像は弘道館前にもありましたが、2つもあるところを見ると、やはり水戸市においての人気・尊敬度は1つ抜けているということでしょうか。
この南町界隈の国道50号線沿いには銅像がいくつかあり、徳川斉昭公像から西へ400mほど行ったところに会沢正志斎像、また更に少し西にある「黄門さんおしゃべりパーク」の水戸黄門像、そしてそこから国道349号線沿いに北に行くと徳川慶喜像があります。
会沢正志斎の銅像は会沢正志斎の屋敷跡にありますが、この人も徳川斉昭の藩政改革に尽力するとともに、斉昭の息子・七郎麻呂(後の徳川慶喜)に勉学を教え、また水戸学の思想をまとめた著書「新論」は幕末の志士たちの尊王攘夷論の教科書として熟読されたそうです。
交差点にある黄門さんおしゃべりパークに立っている水戸黄門像。印籠にあるボタンを押すと、黄門さんが四季の言葉をしゃべります。
国道349号線沿いにある徳川慶喜像。慶喜は最終的に江戸幕府の最期の将軍となりますが、幼少の頃はここ水戸の弘道館などで会沢正志斎らから勉学・武術を学んでいました。少年・慶喜を育んだ地であるとともに尊王攘夷論発端の地であるなど、ここ水戸はまさに幕末に起こった革命の夜明け前の地であると言えるでしょう。
また徳川慶喜像の北東300mほどのところに、朱舜水像があります。この人は水戸黄門こと第2代藩主・徳川光圀が呼び寄せた中国の儒学者で、水戸学にも影響を与えた人物とのことです。
徳川慶喜像から更に西へ行った濁町の交差点に、小さめの徳川光圀像が立っています。