茨城県の県庁所在地・水戸市。その駅であるJR水戸駅には、東京から特急で1時間半ほどで着きます。
水戸は言わずと知れた水戸黄門様の御膝元。助さん格さんもお供します。そもそも水戸黄門というのは水戸藩第2代藩主・徳川光圀であり、水戸藩というのは代々徳川家が藩主となっている訳で、つまりは徳川家の御膝元でもあります。
水戸駅の北口から200mほど行ったところに、「義公生誕の地」碑があります。水戸黄門こと水戸藩第2代藩主・徳川光圀はここで生まれたそうで、そこには現在「義公祠堂」、別名「水戸黄門神社」という小さな神社があります。
義公生誕の地の北側には学校が集まっていますが、ここはもともと水戸城のあった場所であり、その敷地の東側には旧水戸城藥医門があります。
水戸城跡の敷地を東西に入っている水戸城跡通りの第二中学校前に、安積澹伯(あさか たんぱく)という人の銅像があります。全く聞いたことのない人の名前ですが、要は「格さん」のことだそうです。安積澹伯は徳川光圀が呼んだ中国の儒学者・朱舜水に学び、大日本史の編纂に尽力しました。
同じく水戸城跡通りに、「大日本史編纂の地」碑があります。これはこの地にあった水戸彰考館という場所で、水戸藩第2藩主である水戸黄門こと徳川光圀が歴史書「大日本史」の作成を始めた地とのことです。「大日本史」は神武天皇の時代から小松天皇という南北朝の天皇までの時代の日本についてまとめた壮大な書物で、水戸光圀の生きている期間では完成せず、それどころか結局完成したのは光圀が作成に着手してから200年以上経った明治時代になったとのことです。
水戸光圀がこの大日本史を書くために日本諸国を漫遊したことが後の水戸黄門の話のモデルとなるとともに(実際には館とからは出なかったという噂あり)、またこの大日本史において過去の代々の天皇を顧みたことこそが水戸学の発端となり、幕末に一大思想となって歴史転換の発端となる尊王攘夷論を生み出すことになるのです。
なお今この「大日本史編纂の地」はかなり綺麗に整備されているそうです。
そして水戸城跡通りから弘道館へ向かう橋の手前に、徳川頼房像が立っています。この方が徳川家康の息子(十一男)で、関ケ原の戦い以後初代水戸藩主としてやってきた徳川頼房です。そしてこの頼房の息子が水戸黄門こと徳川光圀であり、そのまま水戸藩第2代藩主となります。
徳川頼房像から橋を渡って弘道館まで行くと、その手前に徳川斉昭像が立っています。この人が水戸藩第9代藩主として弘道館を作るなどして藩政改革を行った人物で、またその息子・七郎麻呂は、江戸徳川最期の将軍として大政奉還を行う、後の徳川慶喜になります。
そして水戸城跡の西側に、水戸藩の藩校・弘道館があります。この辺りは今はとても整備されて綺麗になっています。
また弘道館の西には歴史的建築物である県庁三の丸庁舎があり、その入口に水戸城跡の塁・堀が残っています。
そして茶色い優美な建物である県庁三の丸庁舎です。これはもともと1931年に建てられた旧茨城県庁らしく、今は本庁は別の場所に移転していますが、この建物も幾度かの改修の上、引き続き利用されています。