甲府駅北口から北へは武田通りが延びており、この武田通りを2.5kmほど行くと、甲府市の誇る武田神社に辿り着きます。
武田神社はその名のとおり武田信玄を祀っている神社で、1912年に建てられました。ここはもともと戦国時代、つまり武田氏全盛期の頃、武田信虎・信玄・勝頼の3代の居住地となっていた躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)があった場所ですが、武田氏の滅亡とともに躑躅ヶ崎館も機能を失い、その後甲府の中心地は豊臣政権期に築城された甲府城へと移りました。
その後時代が変わって明治期になると、武田信玄を祀る神社建設の動きが活発化し、1912年に、信玄の居たここ躑躅ヶ崎館跡に、この武田神社が建てられることとなったそうです。
武田神社から西へ1.5mほど行ったところに、甲府五山の1つである法泉寺があります。法泉寺には武田信玄の息子である武田勝頼のお墓があります。
また武田通りから法泉寺と反対方向の東に500mほど行くと大泉寺という寺があります。この大泉寺は甲府五山ではありませんが、武田氏とのゆかりが深く、境内には信玄の父である武田信虎の墓があります。
そして大泉寺から北へ500mほど行ったところに、武田信玄のお墓があります。
53歳のこの世を去った信玄は、混乱を避けるためにその死を3年間秘密にするよう遺言を残し、その遺言どおり3年後に、塩山の恵林寺に葬礼が行われ、その死を隠していた3年間葬られていたのがこの場所だそうです。
また信玄のお墓の近くに「河尻塚」という塚があります。説明文を読むと、信長と信玄との戦いの際に信長の部下として河尻秀隆という者の首塚だそうです。河尻秀隆は武田氏討伐後ここ甲斐の領主となりましたが信長の力を背景に圧政を行った結果、信長の死後に武田氏の旧家臣などが起こした一揆を受け、この地に埋葬されたそうです。
信玄のお墓から北へ少し行くと、山梨県護国神社があります。護国神社は全国にありますが、個々の山梨県護国神社も全国の護国神社と同様に、過去の戦争の戦没者の慰霊碑があります。
山梨県護国神社のちょっと東側にある円光院は甲府五山の1つで、信玄公の正室・三条夫人の菩提寺です。
武田神社から北へ2kmほど行ったところに信玄が生まれた要害山という山があり、そのふもとに積翠寺という寺があります。この寺の不動堂には信玄像があり、境内には信玄が生まれた際に使用した産湯を汲んだと言われる井戸があります。