福山城は、江戸時代の徳川体制において関ケ原で敗れた西の各藩を抑えるべく、西国街道の要所として1622年に築城されました。築城主は徳川系で福山藩初代藩主である水野勝成で、その後松平家を一代挟み、その後1973年に廃城になるまで阿部家が歴代城主となりました。
福山城は1945年の空襲により全焼し、今あるのは1966年に再建築された復興天守です。櫓も多くあり、当時は京都の伏見城から移築されたものが多かったそうです。
鏡櫓(文書館)。見えにくいですが(笑)
「伏見西殿跡」と書かれた石碑があります。「御殿」ではな「西殿」というのが?ですが、これも伏見城との関わりを感じさせます。
福山城から見える福山駅に福山市街地(中国地方限定の百貨店・天満屋もあります)、そして奥には見えにくいですが瀬戸内海も見えます。
福山城の城内に、二人銅像が建っています。まずは水野勝成像。奈良県大和郡山より移封され、福山藩の初代藩主となったのがこの人で、以後5代まで水野家が継ぐことになります。
そしてもう一人がこの阿部正弘像。13代福山城城主。しかし阿部はその後幕末の混乱期に江戸幕府の老中に登用され、混乱を鎮めるかたちで1854年にペリーと日米和親条約を締結、鎖国政策に終止符を打った人物で、全国的にはこちらの方の方が有名でしょうか。
その後阿部は勝海舟や高島秋帆を登用し、後に国の機関として非常に重要となる講武所、蕃書調所、長崎海軍伝習所をつくるなどし、その一連の政策は安政の改革と呼ばれました。
幕末ものの志士たちが主人公の小説などで、阿部正弘は開国を決めた張本人ということでよく悪役的な位置づけにされがちですが、自身もギリギリまで外国との通商を拒み続けるなどしており、開国はやはり時代の流れだったのでしょう。