この地には戦国時代から加里屋城・大鷹城という名でもともと城があったそうですが、本格的に赤穂城となったのは浅野内匠頭の祖父にあたり浅野氏として初代藩主となった浅野長直が入封した後の1661年だそうです。
明治期に入り赤穂城の建物は次々と壊されていきましたが、昭和の戦後に入ると次々と建物が復元されていきました。
なおこの赤穂城には天守閣がありませんが、天守閣はもともとなかったそうです。
また公園内には大石内蔵助をはじめとする大石家の「大石邸長屋門」があります。大石家はもともと代々浅野家に仕えた重臣で、忠臣蔵の発端の事件が起きた際は江戸から駆け付けた駕籠がこの門をたたいて知らせたそうです。
また「近藤源八宅跡長屋門」もあります。近藤源八という人は赤穂城の設計を担当した近藤三郎左衛門正純という人の息子だそうで、その屋敷の長屋門があります。
また山鹿素行の銅像もあります。山鹿素行は福島県に生まれた江戸時代の儒学者で、1600年代中頃に朱子学を批判したことから赤穂藩に流され、この赤穂城内で生活をしていたそうです。その頃山鹿素行は赤穂藩士達に教育を行い、大石内蔵助も教え子の一人だそうです。
また城跡公園の北の端の方には蔵のような建物が並んでおり、これは赤穂市立歴史博物館だそうです。
また大石神社から500mほどのところに緑色のレトロでお洒落な建物があります。これは赤穂市立民族資料館で、昔は大蔵省塩務局(赤穂は製塩業が盛んです)の庁舎として、明治41年(1908年)に建てられたそうです。設計者は大蔵省臨時建築部技師の大熊喜邦という人で、国会議事堂の設計もした人だそうです。