長崎電鉄西浜町駅の傍に、土佐商会跡があります。
ここは幕末の土佐藩の貿易関係の役所で、後藤象二郎や岩崎弥太郎が主任となり海外から大砲や艦船などを調達して坂本龍馬の海援隊発祥の地となるとともに、後に岩崎弥太郎が興した三菱グループの基礎となりました。
ここで調達した艦船の1つである夕顔丸のモニュメントもあります。龍馬はこの夕顔丸に乗って長崎から大坂へ行く道中で、後に明治時代の礎となった「五か条の御誓文」の元となる「船中八策」を考案したとされています。
西浜町のアーケード通りから2本北側の通り沿いに、清風亭跡の看板があります。
ここは幕末清風亭という料亭があり、ここでそれまで仇敵同志であった共に土佐藩の坂本龍馬と後藤象二郎が会談して意気投合したことから幕末における土佐藩の躍進が始まり、海援隊の成立から大政奉還にまで至ることになったそうです。
西浜町アーケードを抜けた先に、「孫文先生故縁之地」碑があります。ここには孫文の活動を支えた鈴木天眼という人が創立し、孫文の活動も度々報道した東洋日の出新聞の新聞社があったそうです。
大浦けい居宅跡碑のあるエリアの西側は思案橋(しあんばし)というロマンチックな名前の歴史ある繁華街があり、今も飲み屋街などがあります。
思案橋横丁を抜けた先に丸山公園という公園があり、そこに坂本龍馬之像があります。ここ長崎と出身地である高知には龍馬の銅像が本当に多いです。
丸山公園の南側には、「花月」という料亭があります。この料亭は今も現役ですが江戸時代からあるらしく、幕末には坂本龍馬をはじめとした志士たちも訪れたそうです。
この近隣には他の料亭もあり、この辺だけ少し京都の雰囲気があります。
料亭「花月」の後ろ側に、「梅園身代わり天満宮」という変わった名の神社があります。調べるとこの神社の創健者が何者かに刺されそうになったものの傷がなく、代わりに自邸の祠の天神像が血を流していたことからその名が付いたそうです。
またこの神社はなかにし礼の小説「長崎ぶらぶら節」にも登場することから、境内には「長崎ぶらぶら節」の碑もあります。
高島秋帆住居跡
梅園身代わり八幡宮から東に150mほど行くと、高島秋帆(しゅうはん)住居跡があります。高島秋帆という人は長崎出身の幕末の人物で、西洋の砲術などを学び高島流砲術の創始者となり、日本の国防の技術を飛躍的に向上させました。